長谷寺門前町を歩むと、正面に赤い鳥居の立つ緑濃い常緑樹の山容が、大きな存在感をもって参詣者を迎えてくれます。このお山が現在、国の天然記念物に指定されている與喜山で、その中腹に鎮座されているのが、 学問の神として知られる菅原道真公をご祭神とする與喜天満神社です。
菅原道真公のご先祖・野見宿禰は、ここ初瀬の出雲のご出身で、初めは土師氏と称しました。道真公にとって初瀬は遠祖からのふるさとだったのです。一朝廷から学者として信任され、道真公は右大臣まで累進しましたが、大宰府に左遷されて亡くなりました。しかし、道真公が現世では不幸な人生を閉じられましたが、生前のご功績とその至誠のこころから人々に敬われ、 ついに神となりました。このような光栄なことがありましょうか。当社はわが国最古の天神信仰のお宮です。ことに入試合格・学業成就・子育てには霊験あらたかといわれています。
寛平の頃(890年頃)この山に一人の樵夫が與喜山で仕事をしていた時、彼の小屋に誰かが「これを祭れ」といって何かを投げました。 そこには木像が落ちていました。 樵夫はその頃、長谷寺に菅原道真公が参詣に来られていたので、その像は公の御作として、大切にお祭りしました。 その像が神社に現存する木造神像と伝えられています。
また、この初瀬の里に神殿太夫武麿という修行を積んだ高徳の人がいました。 天慶9年(946年)の9月18日の明け方、武麿は高貴な老人の夢を見ました。2日後の9月20日、ふしぎなことにこの武麿の自宅の前の石の上に高貴な翁が座っていました(現在の切石御旅所の地)。 翁が長谷寺へ参詣に向かうと武麿もついて行きました。 翁は川で禊ぎを(現在の中の橋詰め御旅所の地)された後、十一面観音を参り、瀧蔵権現に参ると、急に黒雲が湧いてきてその翁を包みました。 すると、翁は立派な衣冠装束姿となり「私は右大臣正二位天満神社菅原道真」と名乗り、「私はこの良き山に神となって鎮座しよう。」と語って 言葉の通り神鎮まりました。 これが與喜天満神社のはじまりです。 與喜という神社号は、瀧蔵権現が道真公の神霊に「良き地」だとおっしゃったことから起こりました。 「吉のお宮」と呼ばれるゆえんです。
天暦2年(948年)7月、武麿は神殿を建立しました。 これが與喜天満神社の創祀です。
10月の第3日曜日、初瀬の門前町は各町から繰り出された太鼓台や、天満神社の鎮座する與喜山からお下りになった神輿の巡幸で、沸き立つように賑わいます。 これは、與喜天満神社の大祭で、通称「初瀬まつり」と呼ばれています。 近世の奈良では春日大社のおん祭りに次いで盛大な祭典として知られました。 本来は9月20日に行われましたが、現在は太陽暦の10月となり、20日に近い第3日曜日に毎年祭典が斎行されています。
祭礼日の9月20日は、天慶9年(946年)、道真公の神霊が神となりこの初瀬の地に顕現された日であり、その神の事跡を尊び、 神社から下った神輿は、道真公が座られた石(切石御旅所)を巡幸して、神輿はしばしその御旅所にとどまるなど、神の顕現を再現するという宗教的にも貴重な祭典です。
與喜山は、古くは大泊瀬山と呼ばれ、古代大和の国では最初に太陽の昇る神聖な山としてあがめられました。『万葉集』では初瀬(長谷)にかかる枕詞「隠り国」一山に囲まれ隠っているような地一は、この自然お姿から生まれたのです。 万物の生命のみなもとである太陽と、母なる慈愛を神としてあがめたのがアマテラスという女性神で、天上からこのお山にはじめて降臨されたと伝えられています。 現在の本殿の向かって左に古代信仰のままに磐座(鵝形石)に祭られているのが天照大神で、女性の守護神として信仰されています。 一またその後方の鍋倉山には、延喜式式内社の鍋倉神社が磐座に祭られています。 ご祭神は大倉姫神、別名・下照姫と申し上げ、『古事記』の世界では大国主命の娘で、その美しさは、衣を通して地を照らすほどであったといいます。
天武天皇は、皇女の大来皇女を伊勢神宮の斎王とするために、この地に泊瀬斎宮という潔斎の施設を設けたことが、『日本書紀』に記されています(天武天皇二年四月<673年>)。 皇女がこの地で潔斎を経て、伊勢に向かうのは、初瀬が伊勢神宮の信仰の出発点と見られていたからではないでしょうか。 その太陽信仰の原点が與喜山に伝承していることからも、泊瀬斎宮は禊ぎの川、初瀬川を帯に巻いたような神聖な與喜山にあったと考えられます。当山にはこのような女性神の信仰が古代から息づいていたのです。
※写真は左から、泊瀬石・延喜式式内社の鍋倉神社・磐座(鵝形石)
源氏の恋人の夕顔の遺児だった玉鬘は、筑紫の国で美しく成長していました。 あることがあって、京へに上りました。 その秋、霊験を頼んで長谷寺に参詣した時、偶然にも右近に再会したのです。 実は右近も玉鬘に会いたいために、たびたび初瀬詣でをしていたのでありました。 二人は喜びを歌に託して詠み交わしました。
二本の杉の立ちどを尋めれば古川野辺に君をみましや(右近)
初瀬川はやくのことは知らねども今日の逢ふ瀬に身さへ流れぬ(玉鬘)
右近のうたった古川野辺は、連歌橋の架かっている付近の初瀬川をいいます。 一江戸時代の国学者・本居宣長が当地を訪れたときには、與喜山の西の山裾(現在の素盞雄神社の上)に玉鬘庵がありました。 (『菅笠日記』より)一玉鬘は不幸な生い立ちから、やがて女性としての最大の幸福を得たのです。 玉鬘は縁結びと女性の幸福の神であるゆえんです。
長谷寺から、與喜天満神社の境内にいたる途中、初瀬川に架かる朱塗りの橋があります。 これが「連歌橋」で、当神社にて連歌をおこなう人々が渡ったので、その名が呼ばれるようになりました。 鎌倉時代の末頃から当社では、「天神講連歌会」と呼ばれるほど連歌が盛んで、わが国の文学史に残るものでした。 連歌のバイブルともいわれる連歌撰集『竹林抄』(宗祇篇・文明8年<1476年>成立)にも、「初瀬にますは與喜の神垣」という句が所収されているほどです。
江戸時代に描かれた「與喜天満宮祭礼図」には、9月20日の大祭の日に、本殿の脇にあった連歌会所・菅明院にて法楽の連歌が興行されていた様子が描かれています。 一『竹林抄』の作者の1人でもある連歌師・真能は、室町将軍に仕え、通称・能阿弥と称し、画家でもあり、また茶、花、香の諸芸の創始者でもありました。 総合芸術家ともいうべき能阿弥はいわゆる「わび・さび」の文化を生んだ日本文化の父ともいうべき人であり、このような偉人が與喜天神を深く信仰し、 慕って当地で亡くなったことは、文化の奇蹟というべきでしょう。
また中世芸術を代表する芸能・能楽も、また当社と深いかかわりがあったのです。 能楽師の金春禅竹はその著書『明宿集』に、自分たちの祖先・秦河勝が初瀬川の河上から流れてきた壺の伝承を記し、 また、與喜天満神社の神主が、昔、泊瀬與喜の宮のあいます大夫、神慮奇特の人なりしが、その歌に云「泊瀬山谷の埋もれ木朽ちずしてこん春にこそ花は咲きつげ」(『明宿集』より)と、神秘的な和歌を詠んだことが記されています。 当社は能楽の発祥の1つの聖地と考えられているのです。 一当社は古代から中世にいたる、文化の源郷なのです。 その芸術を生む根源的ちからを、信仰の深さに内包して、長く現在にその精神と伝統を伝えているのです。
※写真:古河野辺にかかる連歌橋。素盞雄神社・玉鬘神社・鍋倉神社参道。